My Music Story

ピアニスト 湯川 真由(MAYU YUKAWA)
2歳で「幼稚園に行きたい!」と言い出し、幼稚園代わりに習い事の体験レッスンに一通り連れて行ってもらう。

「親子体操か音楽教室がいい!」と言う私に、母は迷うことなく音楽教室に決定!

モンテッソーリの考え方に感銘を受け、この頃からなんでも自分で選択させてくれた母には感謝。


「ピアノの先生」「ピアニスト」というおしとやかなイメージとは程遠く、3歳で駒なし自転車を乗り回す。

近所の年上の男の子たちについて勝手に街へ繰り出してしまう冒険好きなおてんば娘。

音楽家ではない両親の元で育ち、折り紙、一輪車、体操、絵画とたくさんのことにのめり込み、

幼稚園の先生の弾くピアノを真似して、遊びの一つとしてピアノを楽しむ♫


自営業の家庭で様々な感情を抱きながら育つ中で、ピアノが悲しい時には悲しい音に、

嬉しい時には嬉しい音になることを発見する。感情やイメージが様々な音色に変化すること。

ピアノを弾くことで自分の心が癒されることをこの頃から感じる。

「まゆちゃんの弾くピアノはみんなと何か違うね!」と言ってもらえるのが嬉しくてピアノが大好きに。

でも小さな頃の夢は幼稚園の先生で、ピアニストになるなんて思ってもいませんでした。

「音楽の道に進ませるつもりはありません!」と母は専門コースへの推薦も即お断り。

「いつでも辞めていいのよ!」と言われながら、細々と音楽教室を続けていました。

様々なジャンルの音楽に出会い音楽の楽しさを知った幼少期。


10歳で阪神大震災を経験。

街が一瞬にして破壊され、身近でたくさんの方が亡くなる。

「自分はなぜ生かれされたのか」「自分には何ができるのか」を幼心に真剣に考えた日々。

「早く春が来て桜が咲くといいね。そうしたらみんなの心が明るくなるのに!」

瓦礫だらけの街を見て母につぶやいた言葉。

小さな頃から私にとって「心」の存在はとても大きく、とても大切なものでした。

私にとって音楽と自然はとても似ていて「心」を癒し元気にしてくれるものです。

「音楽でみんなの心を元気にできたらいいのに」そう感じた震災体験。


11歳の頃に訪ねたコンサートで素敵な音色に出会い「この先生に習いたい!」と

桐朋出身の先生の門を叩き本格的にピアノを学び始める。

同時に桐朋学園大学付属子供のための音楽教室でソルフェージュ(音楽の基礎訓練)を学ぶ。

入室試験で室長の故平吉毅州先生(当時桐朋学園大学作曲家教授)に音楽への熱い想いを語る。

「気球に乗ってどこまでも♪って歌知ってるかい?あの曲は僕が作ったんだよ!」

と満面の笑みでおどけて語ってくれた先生。音楽の教科書やNHKにも登場するような

数々の有名作品を作曲されている先生だと知ったのは後からでした。無知って恐ろしい。。

面接で話し始めようとする母に「お母さん黙ってて!この子の話が聞きたい!」と真剣に話しを聞いてくださった先生。

「音楽は両親にやらされている子が多いなか面白い子だね!この子には教え過ぎないで!」と一言。

サンバ好きの先生によくリズム感を褒めて頂いたことが、今でも私の誇りです。

初対面で自主性を見抜き大切に育てて下さったこと。心から尊敬と感謝でしかありません。


兵庫県立西宮高校音楽科に入学。

競争がない世界に憧れて入ったはずの音楽の世界が、競争だらけだと知り葛藤が始まる。

賞歴にも学歴にも全く興味がなく親子で恩師に叱られる(笑)

唯一参加したオーディションで2年連続全国大会へ。「みんな上手だねー!」と、そこでも競争心が湧かない親子。

とにかく基礎と技術が足りないと言われ続けた高校時代。16分音符単位の細かい指導をしてくださった恩師のおかげで、

様々な角度から技術を体得していく。

しかし、心を「無」にして弾けば弾く程技術が上がり、評価が上がることに疑問を感じはじめ、

だんだん音楽が楽しいものではなくなっていく。

最終的に「これが音楽なら音楽の道には進みたくないです!」と騒ぎ出す厄介な音楽高校生となる。

副科専攻で目覚めた声楽で進学したいだの、メイクアップアーティストになりたいだのと言い出すも

担任の先生に「とりあえず音大に進学してから考えなさい!」と説得され、無事大学受験を迎える。


桐朋学園大学演奏学科ピアノ専攻入学。

それもまさかの入試の課題曲発表直前…

「やっぱり桐朋に行きたいです!」と突然の志望校変更。先生方を振り回した末の合格。

大学入学後、桐朋学園大学が幼少期から英才教育を受けて入学してきた人が大多数だと知る。

「それでなんで桐朋に入れたの!?」という声をたくさん浴び、周りのナチュラルなマニアックさにも

毎日7〜10時間こもって練習し続ける環境にもついていけず、クラシック音楽の世界になかなか居場所がみつけられない。

さらに教授であった恩師に「あなたは音楽を勘違いしている!欲求から弾いていない!」

と演奏に「本質」が欠けていることを一瞬で見抜かれ、再び葛藤と模索の日々がはじまる。

私が抱えていた「疑問」に気づいてもらえた嬉しさ反面、どうやって音楽に「心」を取り戻したらいいのかわからず。

クラシック作品の全てが「ドレミ」でしか聴こえなくなるほどに追い詰められ、思い切ってピアノから3ヵ月離れる。

他のジャンルの音楽しか聴けなくなっていた中、あるCDに出会い心躍る。(ピアニストの名前は覚えられず。。)

そのCDに励まされ「例え王道から外れても自分にとっての音楽を追究しよう!」と決意しピアノ生活に戻る。


大学3年生で母が大病に倒れ緊急入院。神戸⇔東京を行き来しながら学生生活を送る。

卒業後の進路は就職や神戸へ帰ることを考えるも、納得できる音楽を見つけたくて最終的に留学を目指すことに。

「留学ってどうやってするんですか?」と無鉄砲に尋ねる私に…

「留学への道くらい自分で開くことができなければ海外ではつぶれるわよ!」

との恩師からの言葉で、自ら留学への道を模索し始める。

常に本質をついた一言をくれる恩師の言葉は、いつも何年か経って経験と共に真意がわかる。本当に有難い。


留学に向かって師匠探しに奮闘するもなかなか道が開かない。

日本の一般的な入試制度とは違い、先に学びたい師匠を探すのが音楽の世界。

やっとたどり着いた「試験を受けて僕のクラスにおいで!」と言ってくださったオーストリア・ウィーンの師匠。

その師匠がピアノへの葛藤期間、心に響いたクラシックCDのピアニストだったことに

留学直前の引っ越し作業でCD写真を見て気づく。(自分の鈍感さんに心底びっくりする!)

導かれた「奇跡」に驚くとともに、人生の不思議なご縁に心から感動する。


ウィーン私立音楽芸術大学ソリスト科入学。

のはずが、ウィーンに来て数日後に入学資料にドイツ語証明が不十分とオフィスに呼び出される。

2週間以内に語学テストに合格しないと「入学取り消し!」と宣告される。

ドイツ語がわからなさすぎて(ウィーン訛りもあって)どこでそのテストが受けれるのかもわからないまま、

とにかくオフィスを追い返される。ウィーンで出会ったばかりの知人にドイツ人の方を紹介して頂き

猛特訓の末なんとか語学テストをクリアする。


やっとの思いで入学!!!留学生活スタート!


と、ほっとしたのも束の間。半年間レッスンがレッスンにならない。

「mayuの音楽が見えない。楽譜通り正確に弾くことなんて僕にとっては重要じゃない。」

とだけ言われ続ける半年間。最初のうちは全く意味がわからず、毎週レッスンに向けて思考錯誤する日々。


ー僕は音楽学生を育てたいのではない。音楽家を育てたいんだ。

ー僕の音楽は僕のもの。mayuの音楽はmayuのもの。

ー先生とは生徒より偉いのではない。君より少しだけ経験があるだけだ。僕らは同じ音楽家として対等だ。

ー日本人はなぜ部屋にこもって何時間も練習するのか。

 散歩に出て自然の色や空気を感じ感性を磨くことの方が音楽にはよっぽど大事だ。

ーみんな顔も手の形も体の大きさも最初から違う。あなたの音色はあなたにしか出せない。

 日本人はなぜみんな同じような弾き方をしようとするのか。

ー嫌われる勇気を持ちなさい。そうすれば強烈なファンがあなたを支えてくれる   

ー心に響くもの。それがジャンルを超えて音楽というものだ

 By ローランド・バティック氏


数々の心響く言葉に救われ、私の求めていた音楽の世界が見つかったオーストリア・ウィーン。

クラシックピアニストであり、ジャズピアニストであり、作曲家でもある恩師のバティック先生。

閉鎖的なクラシックの世界を嫌い、音楽ジャンルのボーダレス化を訴えていた世界的に有名なピアニスト・

フリードリッヒ・グルダのお弟子さんでもあり、数々のCDを出されウィーンではメディア等にも登場している

ジャンルを超えてとても活躍されているバティック先生。

先生には日本にいた時には想像もしてなかった「真に自由な音楽家の姿」と

「自分らしさを大切にして在ること」を教えて頂きました。


おまけに日本ではあれだけ「音楽性はあるけど技術や基礎が足りない」と言われていたのに、

ウィーンでは「技術はあるけど音楽性が足りない」と言われ続けるという逆転現象発生!

評価なんてものは不確実なもので、環境や評価する人が変われば簡単に180度も変わってしまうと知った貴重な経験。

ヨーロッパの「得意分野を活かして個性を認め合う教育」は、ありのままを認めてくれる環境で努力することが

「幸せへの近道」だと教えてくれた気がして、私自身とても生きることが楽になりました。


そんな様々な想いを抱きながら4年制大学を3年で卒業。無事、Bachelor(オーストリア学士号)取得。

ドイツ語での科目授業や卒業論文に苦労した日々は忘れられず。助けてくれた方々には本当に感謝。

そして、もっと語学力があったらもっともっと世界が広がったのにという想いが、今の子育てへと繋がる。

(ウィーン生活では珍事件がまだまだたくさんありましたが・・それはまた追々!)


バティック先生とは院を卒業する約束で5年計画での留学でした。が、留学途中で父の大病が発覚。

大学卒業後に急遽完全帰国を決意。(無事に父は完治しました!)

東京(Hakuju Hall)・大阪(ザ・フェニックスホール)での帰国リサイタルを経て、

帰国後一年間は、幼稚園でピアノ講師をしたり、合唱団の伴奏ピアニストをしたり、フリーで演奏活動をしたり。

音楽で生計を立てることの大変さを感じながら、長年のアトピーが急激に悪化し療養生活へと移りました。


地元神戸での結婚・出産を経て。長男1歳半の時、日化産業株式会社にて音楽事業部を設立。

海外で活躍している留学生ですら、日本では活躍できる場所が少ない現実に何かできればと立ち上げたものの。

演奏の勉強しかしてこなかったことで、全てのことが手探りで学びの日々。

コンサートや音楽教室の企画・運営を経験することで、0から1を生み出すことの大変さや、

アーティストがいかにたくさんの方々に支えられて存在できるのかを痛感。

チラシのデザインから集客まで、全ての分野を試行錯誤しながら一通り経験してみる。

芸術とビジネスという相反する立場や、家庭と子育てと仕事との両立にも、音楽ができる楽しさ反面様々な葛藤があり、

音楽やアーティストの社会的な在り方や、女性としての生き方にもさまざまに思案を巡らせた日々でした。


そんな中、新型コロナ感染拡大真っ只中で幼子2人を連れてシングルになることを決意!

より良い子育てと仕事環境を求め東京へ移住。

現在は子供達の生活を整え楽しみながら、コロナ明けに向けて音楽活動とワンオペ育児の両立を模索中です。


ここまでの長文を読んでくださった皆様、本当にありがとうございます!!

改めて自分の音楽人生を振り返ってみて、本当に色々な経験をさせてもらってきたなと感じます。

私の強みはどんな場面でも「音楽」と共に人生を歩めること。葛藤したり苦しんだり傷ついた分だけ、いつもピアノや音楽が、私の心を癒し力を与えてきてくれました。

そして経験の数だけ、様々な方と共感できる音色や想いがあると信じています。


王道クラシック育ちでもなく、決して優雅でもない自由気ままなピアニストですが。笑

出会えたすべての方と環境に導かれて、唯一無二の私にしか出せない音色があること。

音楽に限らずすべての人の人生がそうであると確信を持てたことは大きな財産だと感じています。

すべての出会いと経験を感謝に変えて。

必要な人に必要な音色を届けられるピアニストであれたらと願っています。


まだまだここには書ききれない経験や出来事、想いがたくさんありますが。

これからも音楽を通して、お互いがリスペクトできる、愛溢れる素敵な方々と出会えることを楽しみに。

演奏活動や後進の指導にも自由に楽しく励んでいきたいです!


「人はみなアーティスト」

大人も子供もすべての人が自由に夢を描き、みんながキラキラと輝ける世界を祈って。

これからも音楽を通してたくさんの人と繋がれますように。


ピアニスト 湯川 真由